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〔月曜日〕〔火曜日・午前〕〔火曜日・午後〕〔水曜日・午後〕〔木曜日・午後〕

〔金曜日・午前〕〔金曜日・午後〕〔土曜日・午前〕
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バソコン土曜日グループは、〔木曜日・夜〕グループから活動日変更しました。

 

 

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[令和2919日 更新 ]

 

 

終わりよければすべて良し

パソコン金曜午前  大 森 和 子

823日訃報の元自民厚生相の渡部恒三氏、訥々とした会津弁で活躍され、たしか「やー嬉しかったなあ」と声を張り上げておいででしたか?

79歳を迎えて特に思うこと、それは時間を無駄にしないこと。 先が無いのです!

思い立ったら先延ばしせずにすぐ取り掛かること。これをモットーに毎日を過ごしています。

 

そして生活に潤いをもたらしてくれたものは「犬との生活42年間」。

昨年、ジャーマンシェパードが亡くなり、犬との生活もこれでピリオドとなりましたが、実に楽しい毎日でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2003年「元気ながさきの会」に入会し、武式太極拳にハマることになりました。

亡き中藤先生の理論と指導が素晴らしかった。

 

20054月、会のパソコンを教わるチャンスが巡ってきました。小学校のPTAの書記ではガリ版刷りの時代でした。

亡き元藤井代表(花をこよなく愛した方)に書記を仰せつかり、いきなり議事録作成が負担でしたが、今にして思えばパソコンを覚えてよかった。全てが目から鱗!

この直後に大森弘雄がカミさんの目論見にまんまと引っ掛かり、パソコン講座に入会させられる羽目となりました。

パソコンは老後にはもってこいのおもちゃですよ。知ってて損はない、知らぬは大損。

パソコン仲間には寝る間を惜しんでまでも、沢山のご指導を頂きました。

感謝感謝で先輩諸氏には足を向けて寝られません。

そして何事も内向きに考えないことにしています。これまで頂いた命を大切に、でも後生大事にはせずに、使えるだけ騙して頑張っていくつもりです。

大田区から来られます太極拳の今川先生・小高先生の熱血指導のもと、かれこれ10年間楽しく仲間と練習に励んでおります。和気藹々とこれが実に楽しいのです。

ぜひ体験なさってはいかがでしょう。

 

 

 

 

車・油絵・太極剣・太極扇・簡化24式太極拳・パソコン・自彊術など十二分に楽しんできました。

良き伴侶・良き友人・大勢の仲間に出会えました。

そして私の1日の締めくくりに晩酌を欠かしません。

「終わりよければすべて良し」

 

 

 

[令和2118日 更新 ]

 

 

お伊勢さんの注連縄

 お伊勢参りの際に珍しいものを見つけました。

二見浦駅から夫婦岩に向かう途中の家の玄関の注連縄です。

  そ  みんしょうらい しそん   かもん

「蘇 民 将 来 子 孫 家 門」 と書かれていて、珍しいと思い、写真を撮りました。

伊勢市駅から伊勢神宮の外宮に向かう参道でもたくさん見ました。

一軒のお店の前で、写真を撮りながら隣の家との違いを見比べていたところ、お店の方が、この注連縄は、1年中飾っておくのが一般的で、喪中の家は飾らないなどと説明してくれました。

帰宅後に調べて、伊勢地方に伝わる「蘇民将来子孫家門」のいわれがわかりました。

この風習は、心やさしい蘇民将来のお話からはじまったものだと言われているそうです。

伊勢地方に伝わる「蘇民将来子孫家門」のいわれ

 その昔、スサノオノミコト(須佐之男命)がこの地方に嫁を探しに来たとき、泊まる宿がなく困り果て、地元の金持ちの巨旦(こたん)将来に宿を頼んだが断られ、貧しい弟の蘇民(そみん)将来に頼むと快く歓待してもらいました。

スサノオノミコトは、翌日その身分を明かし蘇民の子孫には、その証となる木札と珠を腰に提げさせるように命じました。その後、蘇民将来の子孫は、災害や疫病から逃れ繁盛したということです。一方、巨旦の子孫は、全滅してしまいました。そして、いつの頃からか伊勢地方では、注連縄に魔除けとして「蘇民将来子孫家門」の札を下げるようになったと言われています。

門符の裏に書かれている「急々如律令」とは、悪魔を退散させる呪文の一つ。(急々に律令のように厳しくせよの意)

また、左右には格子形「ドーマン」と星形「セーマン」と言われる魔除けの印が入っています。

 

門符:注連縄につける木札

スサノオノミコト(須佐之男):日本神話の神。イザナギノミコトとイザナミノミコトの子。

                  アマテラスオオミカミの弟

文責  市川

 

 

 

 

 

 

[令和元年921日 更新 ]

 

 

犬と私とパソコンと

私の育った家は両親が犬好きで物心がつく頃には3匹の犬がいた。特に父は大の犬好きでその血筋は間違いなく私が一番強く引継いだのではないかと思う。 一時は全部で10匹もいた時期もあり、父が亡くなる少し前に名前を一覧表にして数えてみたところ20 匹を超えていた。 その後ブームになるチワワのブリーダーの知り合いがいて、そこでたまたまポメラニアンと交配してしまったと言われる今で言うロングチワワのはしりのような、但し顔はポメラニアンに似ているので売り物にならないが如何と言われ、その可愛い仔犬を目の前にしたら父は「置いてって」と。

その後も4匹頂き、去勢避妊手術をしないメスもオスもいたので、当然ながら内々で交わりとても性質の強い仔犬や逆に弱い仔犬ができてしまい、姉次兄私3人に12匹ずつ世話をする状況で、その上にそれぞれ受験勉強もあるためとても大変でした。 それは小型犬飼育で我が家の家が少し部屋数が多い家であったために可能でありました。

一時は本当にうるさい程の数の人と犬がひしめき合うような我が家でありましたが、今は一番父の血筋を引いている私が犬関係の資格を通信で取れる物は取得、トリマーだけは半年だけど専門学校に通い取得しました。

一時ゴールデンレトリバーが流行った時に我が家はフラットコーデットレトリバーを飼っていました。 もちろん私が世話係りで、散歩にトレーニングにと大忙し。  名前はコロンボ。とってもやんちゃ坊主。力強いカッコいい子。 そんなワンコと散歩しておりました。その後に当時一諸に飼つていた「パピヨンジュンとクリ親子でばあちゃん犬」。

 

 

 

散歩で出会う犬ママ友さん達。いずれもシェパードとゴールデンレトリバーのママさんでコロンボのことを知つていて話しに花が咲き、「シニアのパソコン教室で、初めてでもゆつくり繰り返しやるのでどうかしら」と誘われました。

マジでまつたく出来なかった私が何とかここまでの文章を打てるようになりました。

今だに変換に戸惑いながら、更にパソコンを頑張り、楽しみたいと思います。

                      文責  木下

 

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ワードで作って見ました

 

 

[ 令和元年 5 18日 更新 ]

 

 

趣味の写真

数十年前に写真のサークルに入っていて、日比谷公園・神代植物公園・群馬フラワーパークなどに写真を撮りに行きました。

当時は男性が多くて女性は少数でした。入会する時に長く使うからと思って高級な一眼レフカメラを購入しましたが、機能が複雑で初心者の私には使いこなせませんでした。  初心者には簡単に写るカメラが良いですね、失敗しました。  三脚も買いましたが、出掛ける時には重くて大変でした。しばらくしてから主流はデジタルカメラに変わりました。

 

その後、私は写真のサークルを退会したので、写真を撮ることもなくなってカメラは宝の持ち腐れになりました。

NHKの午前中のテレビ番組で綺麗な写真が紹介されているのを見ると簡単で良いカメラが欲しくなりますが、今はコンパクトカメラで花や景色を撮って楽しんでいます。

撮った写真を見るのが楽しみで癒されます。

パソコンではお絵描きが大好きです。

 

文責 工藤

 

いちえ会・Daiさんの教材から

描いて見ました。

 

 

[平成31119日 更新 ]

 

 

 

山 陰 へ の 旅

 

 

 

11月の終わりに島根に出かけてきました。

以前から出雲大社と足立美術館へ行ってみたいと思っていましたが、なかなか機会がありませんでしたが、急に思い立っての旅となりました。ツアーでない個人旅行で、行き先の希望から旅行社の人が、調べながら行程を考えてくれました。申し込み後には、自分で、インターネットを駆使して、旅程表を作成して出発日を迎えました。

最初は、羽田から出雲空港へ向かいましたが、 便数が少ないこともあり早い時間しか取れずに家を午前5時半に出発して、出雲空港からは、バスで、午前9時半には、念願の出雲大社へ到着しました。出発の数日前にたまたまテレビで出雲大社が紹介されていたので、その通り、反時計周りに参拝しました。出雲大社は、縁結びの神様だけあり、若い参拝者が多く、どこもすべて並んでの参拝でした。二礼四拍手一礼の上にお願いごとも長く一人の参拝時間が長いな〜と感じました。厳粛な雰囲気の建物と大きな注連縄に感動しました。

1日目は、玉造温泉でカニづくしの料理とメノウを敷き詰めたお風呂で温泉も堪能しました。夕食後には、「どじょう掬い」の踊りを見ました。

 

 2日目は、玉造温泉駅から山陰線で松江駅に行きました。

松江では、堀川めぐりの船で松江の街中を船から眺めました。船の中は、こたつが作られていて、低い橋をくぐるときは、屋根がさがってくるのをこたつに頭を載せるように体を縮めて備えます。名所の案内もしてくれました。

下船後は、松江城に登りました。急な梯子で最上階まで登ると四方が見渡せる、素晴らしいながめでした。急な梯子をロープにつかまりながらゆっくりとおり、お城の見学は、もう、これが最後かなと感じました。 松江の観光には、レイクラインという松江駅から宍道湖をまわるバスがあり、便利でした。 松江歴史館で抹茶と和菓子をいただき一休みして、しんじ湖温泉のホテルに向かいました。部屋の窓から宍道湖が見えるロケーションで、翌朝は、朝日が昇り水面に映る様子やシジミをとっている姿を見ることができました。

 

 3日目は、松江駅から山陰線で安来駅に行き、そこからバスで足立美術館に到着しました。「ミシュラン、グリーンガイド、ジャポン」で三ツ星として掲載された日本庭園と横山大観はじめとする日本画コレクションの調和美が楽しめる美術館との評価通り特に庭園は、素晴らしく紅葉も綺麗でした。

美術館では、河合玉堂の「春雨」という絵が気に入って、ポストカードを購入しました。

 

 

 

 

 

 

 

足立美術館からは、バスで安来駅に戻り、山陰線で米子駅に行きました。 米子駅からは、米子空港行のバスがありますが、便数が少なく時間がありましたが、駅付近には何もなく、仕方なく駅の待合室で時間をつぶすことにしました。 待合室のテレビは故障中でしたので、待合室を行きかう人達を見ていましたが、夕方でしたので、学生さんや通勤の人達がほとんどでした。スマホを見ながら時間をつぶす人、何かを食べながら待っている人、テーブルのある席に座り、パソコンを出して仕事をしているのかなと思える人、等々、電車が到着するという放送が流れると席を立って出て行きました。 毎日の通学や通勤もこうやって時間を調整しなければ電車に乗れないのだなと思い、自分の日常がどんなに便利なものかということを痛切に感じた待ち時間でした。米子空港行のバスは、街中を抜けて、最後は、われわれだけになり空港に到着し、予定の飛行機で帰路に着きました。

 

こうして、山陰への23日の旅は、無事、終わりました。  飛行機で行けば、あっという間に現地には着きますが、 そこからの観光は、やはり思うように行かずに遠いな〜との印象が残りましたが、 頭に焼き付いた景色を思い出しながら行って良かったと思える楽しい旅でした。                                

文責   市川

 

 

 

 

関連画像

 

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[平成301117日 更新 ]

 

 

 江田島(旧海軍兵学校)の見学           

 

卒業以来16回目(56年目)の同窓会で20185月に呉(江田島)の「旧海軍兵学校」を見学する

「海軍兵学校生徒館」(現在の海上自衛隊幹部候補生学校)はレンガ造りの校舎で、145mもある立派な建物で廊下を端から見渡すに145m先まで一直線に見渡せる壮観な眺めである。正確な長さは144.8mであり当時の駆逐艦の全長に相当し、卒業後に配属される駆逐艦の大きさを教室で慣らすためとの事で、先人の設計思想に脱帽です。赤レンガの建物のレンガはイギリスから輸入しており、現在のお金で一個が12万円で、一個ずつ油紙で包みブリキ缶に入れて船で運ばれたとのこと。更にレンガは低温で長時間焼き上げるために無駄な気泡が無くなり、日本のレンガと異なり赤レンガの手触りは表面がツルツルしています。

 

 

 

 

 [レンガ造りの生徒館]

 

全国の優秀な生徒が赤レンガの生徒館で学んだ歴史ある建物は威厳があり、江田島湾に面する広々とした校庭は清々しい景色である。入学式や卒業式の催される外装が花崗岩造りの重厚な「大講堂」の正面入口付近は立入禁止区域となっており、この入口からは皇族またはそれに準ずる ”高貴な方” しか入ることは出来ませんとの案内者の説明。 『昨日でしたか、本日同様に30名ほどの見学者に説明している時に「もしかしてこの中に高貴な方がいらっしゃいますか?」と質問するに、手を挙げる方がいらっしゃいました。 「皇族とどのような関係のある方でしょうか?」との質問に「実は私は、今年やっと後期高齢者の仲間入りをしました“後期の人”です」との答えでした 』 の説明に見学者一同爆笑した次第。会社生活の現役時代に、役員であり最後は事業本部の特別顧問としてS氏が在籍しておられました。同氏は海軍兵学校を首席で卒業と聞いていましたので当日調べるに、73(昭和19)の首席卒業者であることを確認する。 なお、海軍兵学校の卒業式では成績順に卒業証書を渡されたととの事です。900名程の卒業者(73)の中、1/3300人弱は戦没者となっていますが、生き残ったS氏は亡くなった同胞を悼み、一生独身でおられました。年間7万人が訪れる江田島(旧海軍兵学校)は非常に興味ある内容で満足した見学であった。

まだ訪れていない方は訪問されることを推奨します。

                      有馬 孝之

 

 

[平成30915日 更新 ]

 

 

ぼくのセンチメンタルジャーニー

 

 六月の末、娘夫婦がぼくを旅行に連れ出してくれた。5時起きで東京駅に向かう。東海道山陽新幹線で岡山へ、ここから車を借りて3泊4日のドライブの旅が始まった。

 

まず高梁市に向かった。ここはぼくの父の出身地で、太平洋戦争が始まる直前の1941(昭和16)年の夏休みに、列車で立ち寄っただけだったけれど、こんどは街中で食事をしたり、米川正夫・文子生誕の地なる碑を見たり、現存の山城として有名な備中松山城にも登った。この日は倉敷の美観地区に近いホテルに宿泊。

 

2日目は美観地区の散策から始めたが、フランス印象派のコレクションで有名な大原美術館は割愛し、美術館の前の堀割を往復する川船に乗ってみた。わずか400メートルばかりの距離だが、船から見上げる街並みもまた一興というところ。星野仙一記念館があった。大原家が経営していた倉敷紡績(クラボウ)の工場跡も見学した。

 倉敷からは瀬戸大橋を越えて四国に渡り、途中のうどん屋で昼食、さすが本場の味と感嘆するほどではなかったが、讃岐名産を食して満足した。日本史の教科書に出てくる満濃池の案内表示を横目に、2日目の宿泊地の祖谷渓をめざす。予約した民宿はかずら橋から徒歩で5分ほどの所だった。

 3日目は、ぼくが敗戦の年に兵隊生活8か月を過ごした豊浜に向かう。ここの紡績工場の跡が陸軍船舶幹部候補生隊になっていたもので、今は建物は取り払われて太陽光発電パネルだけが並んでいた。

ここからは一路、道後温泉をめざす。宿は落ち着いた日本旅館で、内湯もあったが、もちろん有名な『道後温泉』にでかけた。ここは有料の共同浴場で、複数の料金の異なる浴場と休憩場があって、昭和天皇がお入りになった浴室も見学した。

 4日目はサイクリングもできるので有名な「しまなみ海道」を通って福山を目指す。瀬戸内海の島々を伝って本州へというので、波音を耳に渚をドライブと思っていたら、海面からはるか高い山の中腹を走るので、兵隊の時舟艇演習で渚から上陸して参詣した大三島の大山祇神社は、拝むことはもちろん、影も形も見ることができなかった。といふことで、瞬く間に本州に到着。

福山市内には入らずに振り出しの岡山に向かった。ということで、ぼくの感傷旅行は終った。

文責 米川哲夫


[平成30120日 更新 ]

 

 

               [郷里・鹿児島・について]

今年のNHKの大河ドラマは「西郷どん」です。因みに鹿児島では「さいごうどん」とは読まず「セゴどん」と読みますように、鹿児島弁に限らず方言はよその土地の人々とのコミュニケーションでは障害となっていました。一方、某教授が「共通語を話す能力が人格評価の要因として、異常な比重を占めやすい」と指摘したように、鹿児島では昭和30年頃迄、方言がハンディキャップとして強く意識されていました。ところが現在ではTVの影響もあり、方言は一世代前までは考えられないほど影が薄くなり、方言によってはその意味が分からない子供も多いと聞きますが、鹿児島育ちである小生の経験も踏まえ、“鹿児島弁”の特異性と“小松帯刀”について記します。

 [短呼]

南国のどかな風土に恵まれ、ことさら急ぐ必要もなさそうなのに、鹿児島の人は言葉を可能な限り縮小して短呼します。県外から来て間もない人が、通りで近所の人に会い「どちらへお出かけ?」と挨拶したところ、にっこり笑って「ケケケ」と答えました。当人はちゃんと挨拶したつもりなのですが、皆さんお判りでしょうか? 最初のケは貝のこと、次のケは買うという動詞の語幹、三番目は動作の目的を示す助詞のケで、翻訳()するに「貝を買いに(行きます)」と言っているのです。

言葉に限らず人名は姓も名も短呼して、前述の「西郷どん」は「セゴどん」、「東郷どん」は「トゴどん」、「伊藤どん」は「イツどん」となります。

[行くと来る]

神戸の会社に就職した頃、友人との電話で「それじゃ、○○時にそこに来るからね」との会話を聞いた先輩から『有馬君、君は「行く」と「来る」を逆に使っているね!』との指摘がありました。『私は英語式に「I'm coming」と言っているのですよ』と弁解していたものです。鹿児島弁では移動の方向が共通語と違うのに“来る”があり、「明日行くよ」と言う時に、「アシタ来()ッデ」、「すぐ行きます」は「イッキ来()モンデ」となり、相手を中心にものを言っている訳です。

(1)からハガキに「ジイジ、またこんどメジロにくるからね」との言葉あり、「エッ!東京の小学生でも逆に使うのか?」と思ったものですが、小1では“行くと来る”の使い分けをハッキリと認識していないためなのか? 一般的に帰国子女(小学生)は“I'm coming”が頭にあるので、“行く”でなく“来る”と逆に使うと聞いていますが、どうでしょうか?

 

 

[小松帯刀]

話は変わりますが、鹿児島での西郷隆盛の人気は凄く、軍服姿の立派な銅像が市立美術館横に建立されています。一方、小松帯刀の像も向かい合って文化センター前にありますが、大河ドラマ「篤姫」が放映される迄小生はその像の存在すら知らず、その後に帰省した際に“筆と筆記帳”を持った小松帯刀像を確認した次第です。

薩摩藩の家老として大久保利通や西郷隆盛と国事に従事し、薩長同盟や 大政奉還に尽力したが、明治政府発足後に残念ながら35歳の若さで病死しました。長生きしていれば大久保利通以上に明治政府の重鎮として活躍したのは間違いないでしょう。           文責 有馬 孝 

 

 

(上の水彩画をシニア活動室に飾っています)

 

 

 

[平成291118日 更新 ]

 

 

ほろ酔いコンサート

 

私の一年の締めくくりは加藤登紀子さんの「ほろ酔いコンサート」で幕を閉じます。

もう何年になるのかしら、いや何十年なのかしらと自分でも分からないほどの、お付き合いです。このコンサートは加藤登紀子さんのファンの集いの

「登紀子俱楽部」の恒例の行事なのです。それこそ何十年か前の事ですが

登紀子さんが東大の教養学部の学生寮のことで後輩のために壇上で熱弁を振るっている姿のあまりの素晴らしさに感動してファンになり「登紀子俱楽部」に入会したのが始まりです。

 毎回送られてくる小冊子(タテ13センチ・ヨコ18センチ)内容もさることながら、表紙の色がとても素敵なのです。パソコンの色見本に時々拝借しているくらいです。

 登紀子さんの歌手生活の始まりは「知床旅情」がヒットし(1957年)シャンソン風の「赤い風船」が新人賞を受賞したのがきっかけだそうです。

その後、英語で歌い、ギターを弾いていると、キャバレーのおっさんたちに、「外国の歌をうたうなよ」といわれて生まれたのが、「ひとり寝の子守歌」

〈混沌はチャンス、困惑はエネルギー〉この考え方がこれからの、歌作りの原点になったのだそうです。

暮れが近づいてくると、今年もほろ酔いに行くのかと子供たちにからかわれますが完全無視!

         存えて背負う者なし年の暮れ

 

待ちに待った「ほろ酔いコンサート」の日がきます。

「ほろ酔いコンサート」の会場の受付は、日本酒の樽酒が割られていて、皆それぞれコップにおし頂いて会場に入ります。会場はすでにお酒の匂いでムンムン。もうほろ酔いです。ややもして登紀子さんが一升瓶を提げて登場すると、もう割れんばかりの拍手 ! 喝采 ! 客席は意外と殿方が多いので、かけ声も迫力があり会場は早くも最高潮、あとは夢のひととき…

 

「登紀子俱楽部」にはお約束があります

美味、美酒、美歌をこよなく愛し

生活の楽を創造する自由人

地球を冒涜しない自然人であること

会員は心してこのお約束は肝に銘じて護っております。

 

もう一つの楽しみは、「登紀子俱楽部」には誌上句会があるのです。

登紀子先生、野本京先生による俳句の選評、添削をしていただける事です。また、先生方の投句も素晴らしいです。特特選に選べられると登紀子先生の御染筆の色紙が送られてきます。今や私の宝物です。

過日、登紀子さんがご高齢のお母様と「徹子の部屋」に出演なされたときのことを昨日のように思い出されます。いつもと変わりなく素晴らしい歌唱力と素敵な御衣装とお帽子で思はず、テレビに向かってブラボー!と叫んでしまいました。もはや完全なミーハーの境地です。満面の笑顔でお母様をサポートなされ、少女のごとくお母様に甘えておられる姿は、登紀子さんのほほえましい一面を垣間見ることができました。

新聞掲載の加藤登紀子のひとり言の欄では「ごめんなさいといっても、本当のごめんなさいは出来ていない」ー言葉で上手に言えることより、何の償いも出来ていないことに苦しむ心が必要でしょう!―と述べておられた。しかりごもっともである。

 

 

 

これからも、恙なくほろ酔いコンサートが続いていくことを心から念じている昨今です。

 

足し引いてやや余る幸去年今年

 

       文責 小 林

 

 

[平成29715日 更新 ]

 

 

私は「元気ながさきの会」の「第6回ワード入門講座」を受講させていただきました。それから12年パソコンを楽しんでいます。先日掛かり付け病院で骨密度検査をしました。昔、指先に検査器具装置を付け計測した記憶があるのですが、何と検査着に着替え、骨密度装置のベッドに寝ての検査でした。

 

 

検査中はCT検査機の様な装置の中、身体はベルトで固定されベッドが移動し私は10分位体を動かさないようにしているだけ。検査結果は、何と腰椎正面・骨密度は同年代と比較して121%、大腿骨骨密度は99%で年相応でOKを頂きました。

 

 

気を良くした私「先生、最近 あれ、それ、これでの会話ですが。」「じゃあ、脳のMRIの検査をしますか?」「宜しくお願い致します。」と云う訳でメディカルスキャニング池袋でMRI検査をしました。当日、メディカルの検査技師さん「補聴器・入れ歯は取って下さい。」「入れ歯を取ったら話が出来ません。」と私。「話はしなくて良いです。」と技師さん。

 

 

「咳が出たらどうしましょう。」と私。「咳はして良いですよ。」と技師さん。

でもね〜、身体を動かさない様にと検査ベッドにベルトで固定されているのに咳が出たら体も少しは動きますよね〜。

 

 

私は咳が出ぬ様生唾を飲み込み必死で咳をこらえました。「音楽が流れます。」とヘッドホンを頭に装置されドーナツ型の検査機の中にベッドに固定された身体が移動していきました。検査が開始された途端とっても大きな ボ〜と船の汽笛が何度も鳴り響き、次は道路工事のアスファルトを壊すダッ、ダッ、ダッの物凄い音。道理で最初に「閉所恐怖症では有りませんよね。」と聞かれました。閉所恐怖症の人でしたら暴れてしまいます。私はこの頃少し難聴になって居ります。難聴でこの音ですから正常な耳の方はさぞ煩い事でしょう。正味15分位だったでしょうか。無事終わりました。検査結果は4項目有りましたが、年相応の「全般性脳萎縮」と言う診断でした。年相応なら良。会話中物忘れで名前が出ず、何かの拍子にポンと出て来る今日この頃。この12年間パソコンが無かったら物忘れがもっと進んでいたのかな〜と思う。 「元気ながさきの会」のお蔭ですね。  皆さんも安心の為に検査をなさって見たら如何ですか。

文責 福島

 

 

[平成29318日 更新 ]

 

ワード(WARD)と私と自動車免許証更

 

私とパソコンとの出会いは会社人間の頃の自己流で覚えた30数年前です。日々海外取引先とのメールが主体でワードとは無縁でした。会社人間から解放された今も知人との間でメールのやり取りは続けて居ります。しかしながら私的の時間が売る程出来ました今、その時間を利用しパソコンの知識をもう少し増やしたいと考えて居りました折、豊島区の区報で長崎の“シニアパソコン入門講座”を知りました。早即入会致しましたのが平成271019日です。初心に帰り基本操作の講習を受け一連の科目終了後即ワード入門講座に入会致し今に在ります。余談ですが昨年の118日に首都圏大雪の為講座が休講になりましたがそれ以外は無欠勤で頑張って来ました。今までメールいっぺんとうのパソコンに対する私の接し方に変化が起こりました。それはワードです。その奥の深さに興味が沸いて来ました。スタート時点ではたった今会で学んだ事が帰宅した時にはすでに忘れて居りました、が講習会の回数が重なる度に気持ちの余裕が出来ましたのか、まずその日の内に学んだ事の復習を家でする事に致しました。その成果があってか指導される方々の話しや技法が少しずつ覚えられるようになりまた、又、今まで一度も触れた事もないキーにもその使用目的が解り始め、映像周辺に出没する奇妙な記号や絵柄にも愛着を感じるようになりました。そして今まで既成品を使用しておりました誕生日やクリスマスに使うカードやポチ袋等を会で覚えたワードで自作し孫に送り大変喜ばれて居ります。

時に難解なテーマに取り組む事も日々老化?して行く脳に刺激を与えてその劣化を少しでも遅らせるのに役立つのではないかと期待し試行錯誤をしながら日々頑張って居ります。

お話しを変えます。ご存知の方もいらっしゃると思いますが今年の3月から道路交通法が改正になります。高齢者の自動車運転免許証の更新方法がより厳しくなり認知機能の度合いによっては免許停止や取り消しになるようです。私は考えました。それに打ち勝つ為にはこの会を利用し多少難解なテーマでも挑戦し脳を撚り活生化させ認知機能低下を少しでも食い止めて免許の更新を続けて行きたいと考えて居ります。一般的な健康診断では認知症検査は行いませんが免許の更新時にはその検査があります。これを利用しない手はありません。合格すればとりあえず社会的に認知機能は正常?と見なされたわけです。

私はペパードライバーです。ID以外に免許など不要な生活を送る毎日ですが、学生時代アルバイトをしながらせっかく得た大型自動車を含む免許をそう簡単に当局に返納する気にはなれません。更新時に少々お金がかかりますがロマン?は捨てたくないのです。運転をしなければ歩行者に害を与える事もありません。どうですか運転現役の方、ペパードライバーのご同輩のお考えは。賛同をいただけるのでしたらその為にもこれからもせっせとキーを打ち続けて認知機能低下を防ごうではありませんか。体を動かす事も忘れないでくださいね。

そうでした。“免許証のない方”には不要なテーマでした。お許しください。

最後に、改めて会でご指導される方々へ更なるご協力への感謝デース!

                                  文責  引田 紀廣

 

 

 

 

 

 

 

 

[平成281119日 更新 ]

 

 

平成28927日(火) 1110分集合〜1330

フローチャート: 端子: 長崎小 ふれあい給食会に招かれて

 

 

長小3年生から当会20名に各人の名前の入った招待状をいただきました。まず生徒のご挨拶、そして「リコーダー」の合奏(曲名は川の流れのように)と「合唱」を披露。

 

 

 

招待状

 

 

 

プログラム

 

 

太極拳部員が太極功夫扇を演武し、生徒に扇の扱いを指導。

何と習得の早いこと! シニアは3年経てど覚えられないのに、生徒はおそらく30分でマスターしてしまうことでしょう。若さってすばらしい!

 

 

 

 

次は昔遊び(けん玉・ベイごま・おはじき・お手玉・羽根つき)

 

 

 

 

これから評判の長小ランチタイムです。

いただきながら家のこと、親御さんの事、兄弟姉妹の事などに話が弾みます。栄養面・彩り・薄い味付け・噂にたがわず大変美味しいこと。特に微笑ましかったのは、食事の遅いお友達をせかさず、優しく気遣う友達の様子に感心しました。いじめもない、思いやりの教育に深く感銘を受けました。日頃の先生のご指導の賜物でしょう。部員の1人が「私も孫が欲しくなったわ」とつぶやく。そして終わりの言葉「街で会ったら僕たちはご挨拶します。元気ながさきの皆さんも、ぜひ僕たちに声をかけてくださいね」と締めくくりました。全員で門まで送ってくれて、ハイタッチでお別れです。今日はすばらしい余韻を胸に一日を過ごそうと思います。諸先生・3年生の皆さん、ありがとうございました。

一同心よりお礼申し上げます。

                              文責 大

 

 

 

[平成28716日 更新 ]

 

 

「板橋」とフィットネス体操

 

 

 

 

私たち『元気!ながさきの会』の初期会員でフィットネス・ウォーキング部会に属していた人は、都労研(東京都老人総合研究所)のトレーニングルームと渋沢講堂は懐かしい場所である。そこで年に2度ほど体力測定が行われ、またまだ普及していなかった様々なトレーニングマシンも自由に試すことができたからである。またここを起点としてお花見ウォーキングも行われたが、2年で終わってしまった。

 フィットネス部会の通常の活動は、週に1度、現在の区民ひろば長崎の1階北側の部屋に集まり、都労研の研究員や大学院生の指導のもとに、転倒防止のための下肢を中心とした6種類の運動をおこなった。転倒→大腿骨の骨折→寝たきり→痴呆(まだ認知症という語はなかった)を下肢の筋肉を鍛えることにより予防しようというわけである。私たちを中心になって指導して下さったのは古名丈人先生で、この6種類の運動をSMAPと命名したいと考えていたが、音楽グループに先を越されて断念したそうである。フィットネス部会は、活動場所が西部区民事務所となり、代わりの活動場所が見つからずに自然消滅してしまった。

 現在は、この転倒予防の6種の運動は区民ひろば長崎で《笑顔でストレッチ》という名称で受け継がれている。

春の桜の時期には、都労研の西側を流れる石神井川べりを、花見をしながら川下へウォーキングをした。この川辺の道は国道17号で断ち切られるが、横断歩道を見つけて国道を横断して横町を抜けると、ふたたび川べりに出る。そこに旧中山道の「板橋」と名付けられた橋が目の前に見える。ここを過ぎるとやがて帝京大学附属病院があり、さらに進むと埼京線のガード下をとおり、さらに進むとやがて王子に到着する。

  この石神井川沿いの花見をしようと、今年の春、東武東上線に乗った。中板橋駅を降りると、すでに川に向かう人の群れができていた。川べりは両岸とも桜は満開、花見客があふれている。桜は大木になって枝を川面に伸ばしていた。人波に流されるように川沿いの道を下流に向かって歩いていくと、突然、目の前を高く横切るように巨大な構造物が立ちはだかった。国道の上の高速道だった。優雅な桜とは次元の異なる世界に来たように感じて、「板橋」と下流の桜を見る意欲は消えはて、そのまま帰路についた。

                                                                              文責 米川

 

 

[平成28528日 更新 ]

 

 

パソコンを始めて数年になります。何年間か?ほとんど家でパソコンを開けないでパソコン教室で、パソコンに「1週間のご無沙汰です」とご挨拶をしていました。最近パソコンのサポーターさんに「どうしてやる気がでたの?そのきっかけは?」と聞かれます。お陰さまでさすがに最近は大分覚えて家でも簡単なものはできるようになりました。私にとっては大進歩です。作品が完成すると嬉しくてワクワクします。ある日教室で完成できなかった作品を家でやって行ったらサポーターさんが「えーやってきてくれたのー!」と言って凄く喜んでくださいました。私もサポーターさんの熱意を感じてすごく感動して感激しました。益々パソコンの意欲が湧いてきました。できた作品は部屋に張って眺めて楽しんでいます。最近では「見開きミニ本」に私は猫が大好きなので可愛い猫の写真を入れて時々見て癒されています。熱心に教えて下さるサポーターさん、教室の皆さん、とても親切で楽しいパソコン教室です。パソコンの日が楽しみです。感謝! 感謝!です パソコン大好き!

                                            文責 江崎

 

 

にゃんこのミニ本

 

 

 

 

[平成28年 123日 更新 ]

 

 

歌留多とり

"天つ風雲のかよひ路ふきとぢよ乙女のすがたしばしとどめむ"

久しぶりに、この歌留多にお目にかかるとは、思ってもいなかったのでびっくりしました。

今年老人会の新年会のお誘いを受けて初めて参加しました。会場の入り口で番号札が伏せてあるのを一枚とり、その番号のあるテーブルに座る趣向のようでした。何か好きな人同士が席に着くのではなく新しいお友達を作るための配慮からこのように設えたそうです。テーブルは七人・八人が座れるようにまるく囲まれてありました。

 恒例の会長さん、町会長さんの新年のご挨拶を拝聴し、今更のように年明けの身の引き締まるような気持になりました。

それから直ぐに、百人一首の箱が運ばれてきました。みなさま、勝手知ったかのように並べ始めました。ああ・・・新年会は歌留多取りの会などだと始めて知りました。私もあわてて並べ始めましたが、今の今で心の準備ができていなかったので焦ってしまいました。

私のテーブルは男性四人女性三人です。並べ終えてそうだ私の好きなあの札はどこにあるのかと、人知れずにらんでおりましたら、それが丁度、町会長さんの真ん前にあったんです。年を重ねると恐ろしいものですね、町会長さんに「すいませんこの札だけはどうしても取りたいのですが手が届きそうにないので私の前においてもよろしいでしょうか」この一枚だけ取れれば十分と殊勝気にいったのです。(今は反省しています)

全てのテーブルが並び終えて詠み手の方の綺麗な、はっきりしたお声で戦いは始まりました。わが家の詠み手は何時も母でした。故郷の岡山訛りの抑揚が面白いと江戸っ子の主人がいつも言っていたのが急に思い出されました。

私のお隣の殿方は物静かな方でした。お声をかけると「私は少し耳が遠いですから」とおっしゃられ「私も目が悪いですから」と、お互いに牽制。これは五分五分かなと思いました。右隣の女性は既に「むらさめは…きりたち」「わが衣では…露と雪」とぶつぶつとお念仏。札が少なるころには、私はすでに椅子から立ち上がり仁王立ち、お隣の耳の遠いお方は何時の間に聞こえるようになられたのでしょうか、とても活発になられておりました。崇徳院の「瀬をはやみ…」これは主人の一番好きな札これは絶対に私がとらなくてはと思った瞬間、なんとお隣さんの手が伸びてきたのです、思はずその手をいやというほど叩いてしまいました。彼はしっかり握って離しませんでした。残念! あと二、三枚になる頃には皆さん、あきれて叩かれるのが嫌だったのでしょう手をだしません。悠々大きな声で名乗りを上げて最後の二枚はいただきました。終ってみればいかに勝負事が好きな私でもこのはしたなさには恥じ入りいりました。早速お隣さんに謝りましたが、物静かに「久しぶりに叩かれました」といわれました。

歌留多取りの興奮冷めやらぬまま乾杯をして次は皆さんで懐かしい歌を5曲ばかり歌いました。お隣さんは朗々たるバリトンで歌っておられました。私は只々聞き惚れていました。これで楽しかった新年会はお開きになりました。

帰る道々、内々ならともかく人様の前で子供じみた闘争心を燃やしてしまったことを反省しながら思い出したのです。俳人の稲畑汀子さんのこの句を

“記憶せんむすめふさほせうたかるた”

百人一首には、「むすめふさほせ」は冒頭の一文字だけでどの歌か分かるものが七首あり。その頭文字をならべたのが「むすめふさほせ」なのです

これを思い出していればもう少し取れたのかと、まだ未練がましく思いながら帰途につきました。

 

 

 

 

 

認知障害の時期に低下する機能として三つあることを思い出しました。その中のエピソード記憶がありました。今日はそれを前頭葉でフル回転して挑戦したことはまんざら闘争心も馬鹿にしたものではなかったのではなかろうかと、自己満足のひとときでした。

 

“紫電一閃老いの吹っ飛ぶ歌留多とり”

 

                             文責 小

 

 

[平成271121日 更新 ]

 

 

夏の思い出を書いて見ました。(北海道3泊4日・息子家族との旅行)

 

 

猛暑日の続く東京の8月、めったに早起きすることのない7歳になる孫が、珍しく一番の起床…それもそのはず、今日から待ちに待った夏休みの旅行。そして初めての飛行機。初めての北海道。朝からテンションMAXです…

さて、池袋のホテルからリムジンバスに乗り、早朝の首都高は渋滞もなくスイスイ羽田空港へ間もなく到着しました。滑走路から飛び立っていく飛行機を眺めながら朝食を済ませ、いざ、涼を求め北海道へひとっとび。1日目は旭川の旭山動物園へ!

 

 

 

約1時間40分のフライトを終え旭川空港へ到着。まず「暑い!」北海道ってこんなに暑いの?空港を出た瞬間にヒヤッとした空気を感じたかったのに・・・しかしながら連続猛暑日を記録更新している東京よりは涼しい?ということで気を取り直し、レンタカーに乗りこみ、旭山動物園へと向かいました。どことなく暑さでぐったりする屋外の動物たちや涼しげにプールに飛び込み優雅に泳ぐ白熊をガラス越しに見学し、吊り橋から手足を投げ出し、項垂れるレッサーパンダを横目に見て旭川の一日目は終了しました。

パソコンで

お絵かきをして見ました。

 

 

旭川2日目は美深(びぶか)トロッコ王国へいきました。

ここ美深は、「日本一赤字ローカル線」昭和60年に廃止され平成10年から運行されました。普通免許証がトロッコ列車の運転に必要です。自らの運転で走ることが出来るテーマパークは全国でも、ここだけです。片道5キロの線路の上をスピードをだしたり、ゆっくりしたり とても楽しい森林浴を堪能しました。

 3日目は、青い池 美瑛にある人造池、通称(白金の青い池)とも呼ばれています。私は、この池を見たくて、34年前に来たのに、時間が無く行けませんでした。ゆっくり見たブルーリバーは、 まさに青のバスクリンを入れたようです。とても感動しました。次に上富良野フラワーパーク

富良野チーズ工房ではおいしいピザをいただき、本日の宿泊先である然別湖(しかりべつこ)へ向かいました。然別湖は、日本で二番目の透明度・一番目は、摩周湖です。大雪山国立公園内にある湖で、標高810mに位置し、北海道の湖では最も標高の高い場所にあります。宿泊先のホテルの部屋から一望できる然別湖の穏やかな湖面に「くちびる山」と呼ばれている天望山が映り込み原生林に囲まれた神秘的な湖を楽しむことができました。夜には星空を楽しむナイトクルーズを予定しておりましたが、残念ながら曇天少雨のため欠航となり、翌日の遊覧船乗船に変更となりました。ちなみに景色は最高だったのですが、暑さにはかないませんでした。ホテルの部屋にはクーラーの設備がなく部屋の中は熱気が…扇風機1台、かけ布団厚掛けでも、何故か眠れました。夜は、涼しく…湖の周りには、ホテルが2件のみ…。最後に、帯広駅、近くの元祖豚丼ぱんちょう 行列に並び、美味しく頂きました。

企画を立ててくれた、息子夫婦に感謝とても楽しかったです。又、よろしく!

                          文責 宮崎

 

 

 

[平成27718日 更新 ]

 

 

楽しいテイータイム

“これ、食べるの70歳過ぎて初めて!

これ食べるの、私も80歳過ぎて初めて!

僕も、これ食べるの90歳過ぎて初めて

ワイワイガヤガヤ“

 

ポツポツと、曇天のなか朱い柘榴の花が咲く梅雨最中の一と日のパソコン教室のお茶の時間の光景です。

世界を翔るバイオリニストのSさんの差し入れのお野菜です。

その異様な物体は、砂漠のサボテンのような、松ぼっくりの親分みたいな面白い形状です。茹でてあるそうで、彼女が蒡みたいな苞片を下のほうから毟って前歯で噛んでその汁を吸って味見をしてみたらと言われて、隣のHさんは早速にチューチュー吸っています。私も、遅ればせながら吸ってみました。何か、お芋のような味がしました。周りを見ると、皆ためらいもなく、10何人が真面目な顔をして、紅唇に鈍色の苞片を銜えてチューチュー吸っているではないですか、この光景を見て私はなんだか胸が熱くなりました。全員好奇心旺盛な方ばかりです。これでは認知症も退散です。

このお野菜の名前は、「アーテイチョーク和名「朝鮮アザミ」地中海産。英米は「キクイモ」というそうです。中の芯はでんぷん質、繊維質が豊富でパスタ料理に使われるそうです。

 もう一品は、酒蒸しした鶏のササミを乾燥したようなものです。名前のご披露は、音楽家ならではの擬音いり・ヒヒ−ン・と嘶きました。「ホースラデシュ」だそうです。和名「西洋ワサビ」フランス名は「ウマワサビ」英名「ウマダイコン」すりおろしてソースに入れる香辛料みたいです。少し毟って食べてみたら、確かにワサビのような辛みがありました。本体の形は、彼女が人数分に切り分けてお持ち下さったのでわかりません。なんだかんだで、とても和やかな気分でお茶の時間は終わりました。Sさんご馳走さまでした。楽しかったです。

同じ釜の飯云々の、大袈裟の話ではないですが、軽いお茶のひとときでもこのように、平和の雰囲気が醸し出されるのですから、世界平和もあまり大上段に構えなくても……ふと、思いました。

今、食卓の特等席には「アーテイチョーク」がオブジェとして、鎮座しております。苞片を二・三枚毟って、茹でて一人でチューチューしてみようかしら?

では、チューチュー

 

 

 

 

 

 

 

 

アーテイチョーク

 

ホースラデシュ

 

 

 

 

 

梅雨うつを鉛筆の香で鎮めをり

 

 

 

 

文責 小林

 

 

 

[平成27523日 更新 ]

 

 

私は金曜日の午前中にパソコンをやっています。

‘今時パソコンぐらいできなくては’と思い習い始めました。アッツという間に6年が経ってしまいましたが、家でパソコンをやらないので(言い訳?)教わった事を自分でも先生も呆れるぐらい忘れてしまって恥ずかしい思いをしながら?やっております。でも作品ができた時はすごく嬉しいです。

パソコンは最初2007を買いましたが1年前に2013に買い替えました。 パソコンは進化して少しずつ変わっていくので使う私や教えてくださる先生も機種が違うと大変なようです。時間は2時間ですが1時間パソコンをやって休憩のお茶の時間になります。 運営委員会の報告や雑談ですがジョークの面白い方がいて皆を笑わせて和んで盛り上がり、楽しいひと時です。

パソコンをやることはもちろんですが皆で話をすることが認知症予防にすごく良いと思います。皆さんが親切で良い方なので楽しくパソコンをやっております。

文責 江崎 尚子

 

 

 

 

 

[平成27328日 更新 ]

 

阪神淡路大震災への遭遇

海あり山あり更には古都の京都と奈良に近い“神戸”を永住の地とすべく就職したものの、サラリーマンは転勤の繰り返しで東京勤務が長かった。そろそろ定年を迎える20年前は神戸の関連会社に単身赴任していて、淡路島を目の前に望む垂水区の単身赴任寮であの大震災に遭遇。

20年目の今年は、神戸住民の4割が大震災の未経験者との新聞報道に時の経過を感じた。寮では最上階(5)にいましたが、突然の揺れに何が起こったのか分からない状態で、本・テレビ・電話や食器等が大きな音で散らばる中、ベッドにしがみついているのがやっとであった。しばらくして落ち着いた頃に机の上に置いていたメガネを探すもなかなか見つからず、何処にあったかといえば、地震の揺れで開いた引出の中に飛び込んだのでしょう、閉まった状態の引出に納まっていた。また、自宅からの電話には鳴っていることさえ気づかないほどパニック状態に陥り、何回目かの電話にやっと無事を告げた次第。

その後の状況はTVや新聞報道で皆さんご承知の通り、三宮の繁華街をはじめ長田地区の惨状はひどいもので、火災のひどかった長田区の噴煙は垂水区の方まで運ばれてきた。

数日後に三宮の事務所(11)に徒歩で数時間かけて行くに、事務所の中は机,椅子,ロッカー等が、まるで麻雀パイを掻き雑ぜたようにグチャグチャの状態で、壁時計は517分頃を指したまま床に転がっていた。昼食時にはよく利用していた隣のビル(10階建)の地下一階の食堂は無惨にも潰れており、昼食時の地震なら事務所の我々は“あの世行き”は間違いなかったと思う。

神戸〜大阪間のJRは勿論不通のため、一週間後には明石駅から岡山駅にバックし岡山空港から羽田に飛んで東京の自宅に辿り着きましたが、それまで食事らしい食事を取っていない我が身に、岡山駅で食べた「カキフライ定食」が美味しかったことが忘れられません。

この大震災を教訓に、首都高速道の橋脚も全て鉄板巻が施工されましたが、神戸高速道の惨状を目のあたりにした自分は、首都高速道と並走する一般道を以前のように車で移動することが、しばらくは出来ませんでした。 又、その後読んだ地震に関する本には「新神戸駅は活断層を避けた場所に建設されている」との記事を見て、その周倒さには感心したものです。

結局、神戸事務所は閉鎖で東京本社勤務となり霞が関駅を利用していて、二か月後320日の“地下鉄サリン事件”では会社の仲間10数人が遭遇したが、偶々自分は当日他所への用件で免れた。

東京も“都市直下地震”の起こる確率が高い現在、「緊急地震警報が流れたら、各自どうするか家庭で話し合い、日頃から備えておく事が必要」と思うこの頃です。

文責  有馬 孝之    

 

 

 

 

 

 

 

[平成27117日 更新 ]

 

 

 

我が家のイルミネーション

 玄関やベランダにイルミネーションを飾るようになって10年余りになるでしょうか?

きっかけは、ガーデニングにはまり、庭もないのに玄関周りに花をたくさん飾ったことからです。

夏の花は連休明け頃、冬の花は11月頃と年に2回植え付けることで、年間を通して花が楽しめます。花を育てるようになったことから季節感をより感じるようになりました。

玄関にその季節にあった飾りを置くようになり、それが高じて、クリスマスイルミネーションとなりました。

最初のうちは、毎年新しい物が欲しくなり、エスカレートしていきましたが、だんだんと飾り付けや片付けの大変さを感じるようになっていた時に東日本大震災がおきました。

その年は、節電をしなくてはならなかったし、そんな気持ちになれないこともあり、もちろんイルミネーションはやりませんでした。

翌年は、玄関のところにサンタクロースとクリスマスツリーの飾りだけを点灯させました。

2013年、2014年と孫を喜ばせようと飾りましたが、寒い中、高い所に取り付けるのは大変ですし、クリスマスが終わり、お正月の準備をしなくてはならない忙しい時期の片付けも一苦労なので、来年はどうするかな〜と考えていた時に近所の方に「癒されます」と声をかけていただきました。

声をかけてくださった方は、家族の方が、体調が悪く、入退院や通院と日々、忙しくされているとのお話でした。

今までも綺麗と言っていただいたこともありましたが、今回の癒されるとの言葉は、とても嬉しく喜んで下さる方がいらっしゃるのなら又、飾りたいと思いました。

文責  市川

 

 

 

 

2012

2013

 

2014

 

 

[平成261122日 更新 ]

 

 

ウォーキングの思い出

かつて本会のフィットネス・グループは,フィットネス・ウォーキング・グループであった。活動場所は旧第三区民集会室(現在の西部区民事務所)で,ここで体操をしたあと,千早フラワー公園でウォーキングの基本訓練を受けた。歩数計も支給された。遠出をすることもあり,哲学堂公園には何回もいったし,おとめ山公園にもいった。平成15年5月には都立城北中央公園に,翌年の6月には,弁当持参で,都指定名勝の清澄公園にでかけている。

このころ会は全面的に都老人総合研究所の指導をうけて活動していたので,研究所の講堂で運動能力検査を受けることがあり,そのあと、桜の時期には,東武東上線の中板橋駅の近くから石神井川の川べりの道を,両岸から川面に枝を伸ばした満開の桜を見ながら,川下に向かって歩いた。国道17号の下をくぐると間もなく,旧中山道の板橋があり,桜が見事なのはこの辺までだ。さらに少し下ると帝京大医学部と付属病院があり、ここで二手に分かれる。大半の人は十条駅に、健脚組はさらに川べりを歩き続けて、王子駅わきの親水公園をめざした。このお花見ウォーキングは2回で終りになった。3年めは僕一人でこの道を歩いた。

ウォーキング部会はなくなったが、スポット企画としてときどきウォーキングの会を催してはどうであろうか。

 

 

ワードで萩とカヤを描きました

 

          文責 米川

 


[平成26920日 更新 ]

 

 

学童疎開*私は小学1年生

 

昭和204月私は早生まれの6歳小学校入学です。

3月の東京大空襲の時は家族で近隣の防空壕に初めて入りじっと我慢、自宅付近は長崎小学校の校庭に飛行機が落ちた事くらいで戦災にも合わず幸せな事でした。

私は小学校の疎開先鳴子温泉へ父と向かうことになり、4月初めに小学校前に止まっていたトラックに父と二人で荷台に乗込み手摺にしっかりと捉まり上野駅へ大空襲被災後の上野への道は焼け野原でした。

恐怖より一所懸命トラックに捉まっていることで必死でした。

上野駅に着き地下道に入ると、被災し家を失った子供や大人が座り込み真中を歩く私達への強い視線を感じ、私は緊張と怖さで必死に通り抜けました。夜行列車で翌朝鳴子温泉到着。バスで旅館まで降りると直ぐ上の姉5年生が出迎えてくれ、私は思わず初めての泪、姉に会えて安心したのでしょう、やっぱり子供です

その後入学式の覚えも無く1,2年生で10人足らず旅館2階大広間での勉強と生活、イジメもなく2年生にふたつ違いの兄がいます。兄弟姉妹の3人がこの時期学童疎開、父が東京から時々来ては皆で沼へハイキングに行きました。

私達の集団疎開は旅館で温泉もあり、不自由なこともなく幸いでした。

でも、一度B29が飛んで来て窓から飛行機が見え、裏山へ避難し怖かった記憶が有ります、8/15の玉音放送は記憶に無いのですが、終戦直後進駐軍(米兵)が何故か私達の部屋にも来て何かを貰って遊んだ様な記憶が?日本の現状を見に来たのでしょうか、姉が10年ほど前鳴子へ同級生と旅行に行き私の作文を書き取ってきてくれました、私は書いた記憶は全く有りません。

8月の終わり頃?秋晴れのようなさわやかな晴天の日に東京へ戻り父が迎えに来ておりました、ちなみに母と姉妹弟は日光の親戚の家に東京大空襲の後疎開をしておりました。この頃迄は運の良い家族でした。

 

文責 西宮

  写真は サポーターがイメージとして追加したものです。 

 

 

 

[平成26719日 更新 ]

 

 

―私の町としま―

 

広報としまは必ず読むようにしています。71日発行の広報の表紙は一瞬目が釘付けになりました。私の好きな茶色で統一されていて、イラストも何か可愛らしくメルヘンチック。としまのシンボルマークも先日勉強したばかりで懐かしかったです。これは、イベント「としま100人女子会」のお誘いです。集まった若い人たちで、これからのわが町としまの未来を語り合うらしいです。彼女たちはどんな考えを持っているのかしらとと思い描いているうちに、急に今まで過ごしてきた、この町の思い出が走馬灯のように浮かんできました。

思い起こせば、戦後間もなく池袋西口マーケットが、立教通りまで闇市が続いていた頃に移り住んでから何十年! 町はどんどん復興。大きな建物サンシャイン・メトロポリタン・豊島師範学校跡地に芸術劇場と発展してきました。家の直ぐそばの神田川支流の谷端川は、台風が来るたびに氾濫して幾度となく畳を上げて水嵩を測ったものです。それが今では暗渠になって「谷端川南緑道」となり川越街道まで続き、四季折々の花が咲く立派な散策の道になりました。

番地も「長崎1丁目」から「西池袋」に変わり環状六号線も山手通りとなり池袋駅を挟んで東に西武デパート西に東武デパートと、お買いものにも便利な町です。文化的には、戦前椎名町には多くの芸術家たちが暮らし絵画・彫刻・詩などの制作に励み、この一帯を憧れのパリの芸術地区モンパルナスにちなみ「池袋モンパルナス」と呼んでいたそうです。現在も「池袋モンパルナス西口まちかど美術館」として活動しています。私たちシニアのためには、「元気!ながさきの会」も誕生して、皆それぞれの好きなグループに所属して、アンチエイジングに励んでいます。素晴らしい会です。最近変わった事は立教裏通りです。とても便利でよかったのですが、夜はちょっと怖い道でした。それが、今ではビックリガードから一直線、道巾20メートルの大きな道路となりました。名前も「西池袋通り」となり、ますます池袋駅が近くなったようです。

こんなに暮らしやすい楽しい町に若い人たちが少なくなっていく現象はさびしい限りです…

今宵は、素晴らしいお月様が煌煌とわが町を普く照らしております。

お月様にこの町の未来永劫の発展を心からお祈りいたしましょう。

 

                   窓放ち仏間に誘ふ盆の月        文責 小 林

 

 

 

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*因みにこの広報を模写してみましたが、とても勉強になりました。

 

 

[平成26315日 更新 ]

 

 

長崎小学校のふれあい給食会に朗読グループやパソコングループ等から20名が参加しました。

長崎生まれの私、実家の父親や3人の子供と親子3代が長崎小学校の卒業生です。

ベビーブームまっただ中に生まれた私の小学生の頃は、5クラスありクラスの人数も50人〜55人ぐらいだったと思います。

 今回、一緒に給食をいただいた3年生は、1クラスで36名ということでした。

綺麗な字で書かれた招待状を手に3年生の教室にむかい、受付で手作りの名札をもらってふれあい給食会が始まりました。

カルタ取りでは、いつの間にか夢中になり負けまいと本気で頑張りましたし、3年生の皆さんの「ともだち」の詩の群読や朗読グループの紙芝居と楽しい時間が続き、ランチルームに移動して、いよいよ給食になりました。

献立は、ほたてごはん、大根とイカの煮物、 豚汁、デコポン、牛乳でした。

私達には、お茶もいれていただきました。

名前が書かれた手作りのランチョンマットの上に生徒さんが手際よく運んでくれた料理が並び、私の頃とは違うな〜と思いながら美味しくいただき、お腹がいっぱいになりました。

食後にクイズを楽しみ、手作りの品のお土産をいただき、楽しい給食会は、終了となりました。

生徒さん達は、1クラスでクラス替えがなかったからか、お互いの性格がよくわかって接しているなと感じました。

デポコンの皮を口にはめこむようにいれて、皆に見せるひょうきんな子、それを見て真似をする子、一生懸命、気を遣ってくれる子、おとなしい子と 可愛い、可愛い、お子さん達でした。

私の小学校6年間もクラス替えがなく、長く一緒だったからでしょうか、今でも○○君、○○ちゃんと呼びあい最近は、クラス会を2年毎ぐらいに開催しています。

子供の頃にひょうきんだったり、落ち着きがなく、いつも先生に叱られていた同級生がクラス会の時にしみじみと現在の生活ぶりを語ったことなどを思い出し、いつの時代も子供は、同じだと思いました。

長崎小学校の校歌は、私が在学中に出来た記憶があったので、ホームページで確認しましたら昭和331月でした。

文責 市川

 

 

 

 

 

 

 

 

[平成26118日 更新 ]

 

 

昨秋の芸術劇場での「介護に関する講演会」に出席し、初めて「ながさきの会」の存在と活動内容を知った次第です。毎日パソコンを利用している現在、もっとパソコンの色々な手法を習得したくて、昨年11月からパソコン教室(金曜日:午前)に入会させて貰いました。

毎回新たな手法に戸惑いつつも講義内容を楽しく学んでいます。

一方、今年はいよいよ後期高齢者の仲間入りの年であり、「来て良し、帰って良しの孫達」とも元気に遊べるよう、また残された人生を前向きに生きるためにも健康面で充実した日を送りたいと念願するところで、“動の水泳とゴルフ”、“静の水彩画”は続けたい。

今回パソコン教室に参加することにより、“静の水彩画”に“パソコン”が加り、“静の水彩画とパソコン”と趣味の世界というかやりたい事が広がり、今後も「楽しく齢を重ねたい」と思うところです。

なお水彩画教室で描いた作品を、許可を得てパソコン教室に飾りましたのでご高覧下さい。

          文責 有馬 孝之

 

 

[平成251116日 更新 ]

 

 

― エス 

 

今年も「介護予防大作戦!inとしま2013」が、開催されます。

思い起こせば、私は何年か前に公会堂で介護予防大作戦を見て、元気!ながさきの会の門をたたいたのです。色々なグループがありましたがパソコンのグループにきめました。

私が初めて師と仰いだパソコンの先生はそれは素晴らしくてあっという間にパソコンの魅力にとりつかれてしまいました。テキストの表紙のイラストを見ただけで、これから学ぶ夢が広がりました。

この時の感覚は今でも忘れません。私みたいに画一的な時代で育ってきたものには順番どおりにこなして「はいおしまい」であったが、パソコンはここの機能を使ったらどうか疑問符がいっぱい!想像力豊かで同じ条件でもそれぞれの個性がしっかりと浮彫りになる作品は、とても楽しみです。先生は授業の合間にも新聞やチラシはお勉強の宝庫ですよと、特にクリーニング屋さんは初歩的なポスターのためになりますとおっしゃられました。たまたまこのエールフランスの広告を新聞で見て私のクラスのリーダーのご指導でトライしてみました。出来栄えはいかがでしょうか …

パソコンで目が疲れると、出窓に凭れて雲とお話をします、たまには飛行船,秋の虹が参加します。

そんな時は、つくづく元気!ながさきの会に入ってよかった思いにかられます。

私たちのクラスは尊敬できるリーダーたちと優しい仲間たちです。五輪誘致の言葉をかりれば

な・か・よ・し

鉛筆を選ぶ贅あり文化の日            文責 小林

 

 

 

 

 

 

 

 

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