フィットネス

何処に行ったの?見つからない!とベランダに出るたびに、半分あきらめながらも視線はウロウロさまよう。
せっかく我が家に来てくれた蝶の幼虫におせっかいをして雲隠れをさせてしまったようだ。
コロナが始まりだし、色々な施設が閉じ、フィットネスもパソコン教室も休みになり、そうかといってどこかに行くのも怖い時に、図書館だけはネットで本の予約と借り出しができた。子供時代に読んだ「ファーブル昆虫記」を再度読み直そうと借り受けた。
フンコロガシまでは面白く読めた。が、狩蜂は捕まえて餌にする虫の神経節に針を刺し、恐ろしいことに生きたまま動けないようにする。その体に卵を産み付け、青虫にかえったら食べつくすまで死ねない新鮮な餌を食べ、サナギになるという話が何巻も続き嫌気がさした。目先を変えて仏文学者で、虫中毒で翻訳者の奥本大三郎氏のエッセイを読むとこれが実に面白い。博識でユーモアがあり分かりやすい文体で虜になる。随分癒された。

奥本氏が蝶の来る庭を千駄木の昆虫館に作られたのを読み、我が家のベランダでも蝶が見られたらと願い、2年前くらいに食べ終わった柑橘類の種を発芽させることから始め、それが10~20センチくらいに育った。緑の濃い葉に癒されていた時に、葉が食われていることを発見。よくよく見ると小さな3センチくらいの緑の幼虫がいた。こんなところに揚羽の蝶が卵を産み付けたことに感激。
ベランダに出るたびに声を掛け、愛でて、時々頭を突っついてオレンジ色の匂いを出す臭角を出させては楽しんだ。
貧弱な5,6本の若木ではサナギになるまで食料がもつか心配。幼虫はかってに植木鉢から植木鉢に次なる葉っぱを求めて移動できるのが分っていても、愛情過多の私は残り少なくなるとつまんでは、次なる木に移動させ自己満足。
 ある日、どの木を見ても愛しの姿が見えなくなり、がっかりしていたら違う鉢の外側に体を斜めにしてくっついている姿を発見、サナギになる準備をしているのが分かった(昔、長男が糸で体を括り付けているサナギを動かして死なせてしまった事がある)が、今回はまだ場所を決めたばかりだし、茶色の鉢に緑の体を寄せたら鳥に見つかるかと思い元に戻し再出発をと促した。

夜 懐中電灯に照らされた幼虫が思った以上のスピードでせっせと移動しているのを確認。前回のように黒い糞の跡をたどれば楽勝と思いきや、翌日見たら影も形も見えず今日に至っている。浅はかだった。
人間には好きにはさせないぞと抵抗したのだろうか。ベランダから逃げ出して好きな所でサナギになり、来春きれいな蝶に完全変態して現れてくれるよう祈るのみ。自然に手を掛けてはいけないことを大いに反省。
                                 

有馬 糸子